雑談

芸の何を変えるべきではないのか。柳家権太楼独演会を見て。

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柳家権太楼独演会に行ってきました。コロナの影響で座席数は半分とはいえ、平日で満席。さすがです。

権太楼さんが一度に子別れと芝浜をやる、というなんとも贅沢な会でした。相変わらずの名人芸で、笑いながらも目頭が熱くなるという、様々な方向に感情を引っ張られます。

さて、権太楼さんがまくらで語っていた事ですが、子別れと芝浜という話は、ほとんど同じ話だと言うのです。確かにどちらも簡単に言えば酒呑みの亭主が改心していく、という話です。しかも、どちらの主人公の名前も熊さんという。別々に聞くのならともかく、一度に聞くとなると少しこんがらがってきます。

芝浜の主人公の名前は、実は人によっては熊さんではなく、別の名前で演じられる事もあるんだ、と権太楼さんは言います。でも、自分が芝浜の主人公を別の名前で演じてしまったら、自分に芝浜を教えてくれた方に申し訳ない。だから今回はわかりづらいかもしれないがそのままどちらの話の主人公も熊さんで話す、との事でした。

マジックというものも、多くは先人が築き上げてきた土台の上に成り立っています。古くから受け継がれているものを時代に合わせて少しずつ改良したり、見せ方を工夫したりして現代に合わせていきます。落語もきっとそうで、古典といえどもやはり少しずつ変わっていかざるを得ないでしょう。

今回、権太楼さんは「教えてくれた方に申し訳ないから」といった理由でそのまま演じると説明していましたが、実際にはその部分を変えてしまう事で、やはり何か、調子だとかリズムだとか気持ちだとか、何かで自分の芸に影響が出てしまうからそのまま演じる事にしたのではないか、と感じました。

外から見たら些細に見える部分が実はその人の芸の中でとても重要な要素であるのだと思います。どんな世界でも名人と平凡な演じ手とで、実際にやっていること自体は、それほど違いはないものです。それなのに名人の芸は観客に受け入れられ、人の感情を揺さぶります。一方で平凡な演じ手の芸は記憶にすら残りません。実に些細な差の積み重ねこそが、名人と平凡とを分けているのだと思います。

とかく、僕を含めて未熟な人間はついつい変えるべき所を変えず、変えるべきでない所ばかりを変えてしまって、受け継がれている宝石のような物をただのガラクタにしてしまう事が多い。

何を変えるべきか、そして何を変えるべきではないのか。名人の奥深い思考を少し覗く事が出来た、貴重なお話でした。

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